荒城の月
作詞:土井 晩翠 作曲:滝 廉太郎 編曲:山田 耕筰
かつての栄華が終わっても、かわらず月は荒れた城を照らしている
1901年(明治34年)に発表。山田耕筰の編曲後、世界的にも有名な日本の歌曲となりました。
武士の時代が終わりを迎え、過去の栄光と現在の状況という時代の変化を月の光を主体に歌われています。
歌詞と歌詞の意味
荒城の月の歌詞は難しいですので、解説していきますね。
※著作権消滅していますので、歌詞も掲載いたします。
荒城の月 歌詞
-
春高楼の花の宴 巡る盃影さして
千代の松が枝分け出でし 昔の光今いずこ -
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照り沿いし 昔の光今いずこ -
今荒城の夜半の月 変わらぬ光誰がためぞ
垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐 -
天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿
映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月
難しい言葉の意味
歌詞の中で??となる単語などをピックアップして解説します。
高楼
高い建物のこと。
高い場所に建っているものでこの曲に合うといえば、やはりお城のことでしょう。
お城の中でも、上の階なのかもしれませんね。
花の宴
日本では 花=桜 なのですよね。
ですので、お花見の宴会をしているのでしょう。
巡る盃
盃(さかずき)とは、お酒を飲む盃ですが・・・巡る?
宴会で酒の入った盃を回し飲みしている、のだと思います。
1つの盃をみんなで使っていくことにより、仲間意識や団結力を感じるのです。
同じ盃から酒を飲んだ仲間は特別な関係なのでしょう。
千代の松が枝
千代は、何世代にもわたる非常に長い間のこと。君が代にも登場する「千代に八千代に」と同じですね。
まつがえは、松の枝だったのですね。
松は太い幹からたくさんの枝が出て、さらにどんどん枝が分かれて成長いくので「繁栄」を意味するようです。
ちよのまつーがえ〜〜・・・「千代の間つがえ」だと思っていた筆者です。
千代の間という部屋で、仕(つか)えている? 密談でもしているのかしらと。・・・・違ったわ。あはは。
いずこ
どこにあるのかしら? = どこにもない
陣営
野戦の軍隊が、守りの兵を立て、他の者は宿り休む態勢にある所。
植うる剣
この曲で1番難解ですね。
植えられているような剣・・・
兵がたくさん集まって刀や槍などをもっている姿でしょうか。
はたまた戦に負けて、多くの刀が地面に(死体に?)刺さっているのでしょうか。
1本ではなく、複数本を指しているのでしょう。
そこに月の光が差し、剣に反射してキラキラと照り返しているのかと思います。
天上
天井は部屋のてんじょうですが、こちらは「天の上」。
神様や自然界のことを指しているのではないかと思います。
歌詞の意味
上記を踏まえて、歌詞の意味を書いてみます。
筆者作成の動画にも、歌詞の意味を掲載していますので参考にしてくださいね。
- 春には城内で花見の宴会をして、
回し飲みをしている盃には月の影が写り込んでいる。
長い間をかけて松の枝のように繁栄をしていったが、
あの頃の栄華は今はどこにもない。 - 秋の陣地では霜が下りるほど冷え込んでいて、
群れで飛ぶ雁の数が数えられるほど月が輝いている。
多くの剣には月の光が反射し輝いていたが、
あの頃の栄華は今はどこにもない。 - 今、荒れ果てた城から夜中の月を見ているのだが、
昔と変わらない月は、今は誰のために光っているのだろうか。
今残っているのは、石垣に生えた葛と
松をも揺らす嵐のような風だけだ。 - 自然のなすことは今も昔も変わらないのだが、
栄え滅びを繰り返すのは、この世の姿である。
栄えていたあの頃を照らし出してほしいのだが、
月が照らしている現実は、荒れ果てた城だ。
花の宴の「え」音程問題
演奏会でこの曲を聴くと、あれ?と思う箇所があります。
1番の歌詞でいうと はなの「え」ん〜♬ の「え」です。
半音下げるときと、全音下げる時があります。
筆者ひまわりは、半音下げで物悲しさがぐぐっと入り込むのがこの曲で1番好きなので、半音下げが正しい歌い方だと思い込んでいましたし、全音下げの演奏を聞くと違和感を感じていたのです。
しかし、この曲を歌うために改めて楽譜に向き合うと・・・・全音下げでした。
動画も全音下げで歌っております。
どっちが正しいの??
原曲は半音下げる(滝廉太郎バージョン)
作曲は滝廉太郎。 春のうららの隅田川〜の「花」で有名ですね。
滝廉太郎が作曲した時は、伴奏はありませんでした。
メロディーだけの作曲でした。
この時は、半音下げで作曲されています。
ちなみに原曲は、ロ短調です。
編曲は全音下げる(山田耕筰バージョン)
山田耕筰編曲では、ロ短調から二短調に変更されました。
原曲よりゆっくり演奏とし、ピアノ伴奏がつきました。
そして例の場所「え」は全音下げになっています。
ということで、
半音下げ全音下げ「どちらもある」ということになりますね。
滝廉太郎と山田耕筰の想いの違い
1ヶ所半音違い・・・・それだけでも、曲のイメージが大きく変わるような気がします。
滝廉太郎と山田耕筰、それぞれにはこの曲に対して強い思いがあったようです。
滝廉太郎は、上質の音楽を模索した
日本の音楽教育が始まったばかり。
西洋音楽への理解を深め、近づけるように頑張った時代です。
学校用の唱歌では教育用としての易しい曲ばかりで質の高い曲が少なかったため、滝廉太郎は質の高い音楽を中学生の教科書(中学唱歌)用にすべく「荒城の月」を作ったそうです。
山田耕筰は、世界に通用する日本らしい曲に
山田耕筰はソプラノ歌手から頼まれ編曲したらしく、移調はその歌手にあわせたキーなのかもしれません。
演奏用なのでピアノ伴奏もつけたのですね。
海外にて荒城の月を演奏したところ「日本の曲に聞こえない」と言われたそう。
外国人の耳には、日本ではなくハンガリーの曲に聞こえたらしいのです。
(筆者にはハンガリーの音階とはなんぞやですが・・・)
日本の曲というのは、多分「ヨナ抜き音階」で作成された曲のことでしょう。
ハ長調の場合に、4番目と7番目の音を抜くのがヨナ抜き音階で、わらべうたなど日本の古くからのはこの構成になっています。
海外では、日本の曲はヨナ抜き音階のイメージが染み付いていて、原曲のように半音下がるおしゃれなものは日本らしくない印象になったのでしょう。
山田耕筰はこの名曲を世界に通用する名曲にすべく、はなのえんの「え」を全音下げる編曲としました。
それが決め手となったのか、現在では山田耕筰バージョンのほうが有名になっています。
歌唱ポイント
なんと難しい曲なのでしょう。。。
筆者の軽いソプラノでは表現しきれないです。
この曲を表現するには、まずは太い発声が必要でしょうか。
それでは歌唱ポイントじゃないですね。。。
筆者のように軽い声の持ち主は、悲壮ただようような暗めの発声を十分に意識しましょう。
クレッシェンド・デクレッシェンドをたっぷりと。
レガートに歌う中にも言葉が立つように、母音子音を丁寧に。
二番の詩の意味について。
詩人本人が解説していない以上、読む側がそれぞれの感性によって
様々に解釈するのは結構でしょう。
しかし字義とかけ離れた解釈を公けに発表する場合は、信ぴょう性のある根拠を
示す必要があるのではないでしょうか。
字義とは、「植うるつるぎ」平文になおせば「つるぎを植える」の辞書に示された意味。
また、「春と秋」 両者は対で用いる場合、逆の情景を表わす という表現の約束性。
その他もろもろの客観的根拠に基づく限り、解釈はただ一つです。
すなわち、一番が「栄華の春」なら二番は「衰亡の秋」です。
中学生の時に習った荒城の月は歌詞が難解で訳も分からずだったので「工場の月だって!」などと、ふざけていましたが、メロディが胸に染みたので、こっそり愛唱していました
幾年かが過ぎ、ある日TVで琴の演奏で荒城の月をやっていたので聞いていると ♪~花の宴 の部分と ♪~千代の松が枝 の部分が習ったメロディと違っていたので琴は、そういうものだと思っていましたが、後日、ひまわりさんの解説されたとおりの理由や、歌詞の意味も、あらまし分かり、あらためて「荒城の月」が好きになりました