一月一日
作詞:千家 尊福 作曲:上 眞行
明治時代〜戦前に、元旦に歌うと国から指定された行事歌
明治26(1893)年に官報3073号付録として告示された「小学校祝日大祭歌詞並楽譜」に掲載され、元旦には必ず歌うものとして指定されました。昭和20年の終戦まで、元旦には全国の小学校にて歌われました。
昔の元旦には、学校にて行事が行われいていたそうです。
天皇陛下と皇后陛下の写真を掲げて最敬礼したり、君が代やと共にこの曲のような儀礼唱歌を歌います。
終了後には、先生から紅白の菓子が配られて下校していたそうです。
歌詞の意味
- 一年の初めに行う決まりごととして
今の天皇陛下の御代が絶えることなく繁栄し続けている幸せを
門松を各家の門に立て並べて
ご近所みんなでお祝いする今日は とても楽しいことですね - 初日の出を見ていると、徐々に光が空に差してきます
四方が曇りなく輝く今朝の空です
天皇陛下のお姿を思い浮かべると
このように空を仰ぎ見て天皇陛下を称える尊い気持ちになります
現在では「天皇陛下が日本の象徴」ということは学校で習いますよね。
しかし、戦前までは天皇陛下は「神様」だったのです。
天皇という地位の変化
現在のように写真・テレビやインターネットがある時代ではありません。
一般の人々は姿かたちがあるものかどうかも定かではない、学校などで写真なのか絵なのかで見せられた人物を「神様」だと教え込まれて、崇拝することになります。
一種の宗教のようなものですね。
天皇陛下に対し反感的になると『非国民』として処罰されますので、天皇を崇拝するのは必須の事ですし、強制されていました。ですので、正月以外でも行事の際には天皇崇拝する「君が代」を歌います。
戦後、天皇は神様ではなく「象徴」となったため、強制的に崇拝させるようなものは年々減っていきました。
思い返せば、昭和生まれの筆者が小学生の頃。
行事の際には、当たり前のように「日の丸」を掲げて「君が代」を歌っていました。
何の疑問もありませんでした。学校の行事というものには、必ずついてくるので。
運動会では『国旗校旗掲揚』がありました。
3本の旗を揚げるポールがあり、必ず中央に国旗(日の丸)を先に挙げます。
日の丸が中央まできたら、校旗とPTA旗?を時間差であげて、国旗が一番上まで上げるのですが、校旗とPTA旗?は少し下で止めるのです。
年号が昭和から平成に変わり、
しばらくすると行事では「君が代は流すけれど歌わなくていい」となりました。
運動会でも、ポールの真ん中に日の丸はなくなっていました。
このあたりで天皇が、曖昧になっていた象徴というものに関し、しっかりと方向性を見出したころなのでしょう。
学校側でも「天皇万歳派」と「君が代辞めよう派」がいて、行事の度に議論があったそうです。(筆者両親は学校の先生だったので、当事者でした。)
君が代は流すけど歌うことを強制しない、という間をとった期間が存在したのもうなずけます。
現在では、君が代も一月一日も、音楽は流れるけれども歌詞をつけて歌うことは控えているのでしょう。
めったに聞くことがなくなりました。
中学生のころ、音楽の授業であらためて「君が代の歌詞の内容」を知り、大変衝撃を受け、意味を知らずに歌っていた君が代が嫌いになったことを覚えています・・・・。
一月一日も、同じような感覚になりますが、
日本にはそのような時代があったことは覚えておくべきですし、この曲も当時の時代背景を表す歌ですので、残しておいた方が良いと思っています。
歌唱ポイント
朝の光を360度広げるような気持で歌ってみましょう。
ロングトーンの曲です。たっぷり息をすって、ワンフレーズ(としのはじめのためしとて〜)を続けて歌えると良いと思います。
この歌の歌詞ほど洗練された歌詞はないと思います。
天皇は日本民族の主(あるじ)であり、天皇を敬(うやま)うべきだと思っていますので、
この歌詞は問題ないと思います。
歌の内容は分かっていましたが歌を歌うものにとって一月一日は新しい年の歌い初めとして毎年歌っています。
無くしてしまわずそういう時代があったのだと残して行きたいですよね。
「終わりなき世のめでたさ」は、何も天皇を指すだけでは無いので無くすには勿体ない美しい名曲です。
小学低学年生の頃 元旦に登校して寒空の中、校庭に全員整列して校長先生の話聞いて 君が代歌って 紅白饅頭もらって帰った記憶があります(大晦日に遅くまで起きていた児童は校長の長話の途中にバタバタ倒れてましたっけ)
この歌の意味は学校では習わなかったけど大人になってから知って
天皇陛下=神様 そういう時代があったということを忘れないためにも
歌いつなぐべきと同感しますね。
替え歌で ♪~
トーフの初めは大豆です
尾張名古屋の大地震
松竹ひっくりかえして大騒ぎ
後の始末は誰がする って歌ってました(笑)